project and news of the botanical redesign

02_flowers

weekly “Flower design” 12/27/2015


●Japanese name:青桐(アオギリ)
●English name:Chinese parasol tree
●Scientific name:Firmiana simplex
●Habitat:Southeast Asia

02_flowers

weekly “Flower design” 12/19/2015


●Japanese name:ユーフォルビア
●English name:Euphorbia
●Scientific name:Euphorbia
●Habitat:Mexico

02_flowers

weekly “Flower design” 12/12/2015


●Japanese name:山躑躅(ヤマツツジ)
●English name:Azalea
●Scientific name:Rhododendron
●Habitat:Asia, Europe, North America,

06_blog

no.5 部屋を庭にするただひとつの方法

最小限の行使によって、最大限を獲得せよ。 (バックミンスター・フラー)

約500万年前、アフリカの森からサバンナへと旅立った勇敢な猿人達は後に「人類」と呼ばれることになりました。その更に遥か数百年前から、僕らのご先祖様達は計り知れない長い時間を森の中で植物に囲まれ暮らしてきました。だから僕らが自然から遠ざかることによって大きなストレスを感じるのは無理もありません。森から旅立った人類が大昔から抱え続けてきたホームシック問題は、現代でも相変わらずあらゆるメディアを賑わせています。

しかしたとえどんなに自然が恋しくとも、そのために森へ引き返すひとはいません。加速する都市化と悠久のホームシックとの狭間で苦しみ続けたご先祖様達は、知恵を絞りに絞ってついには「庭」という解決策を発明しました。庭は都市化の副産物として産声を上げ、都市において自然を知覚する唯一の手段として不動の地位を確固たるものとします。古今東西、都市あるところには必ず庭があってひとを慰めてきました。

僕はこれまで、仕事でも趣味でも沢山の植物に関わり沢山の庭を見てきました。言うに及ばず庭が大好きなので、国内外の知らない街に行くと必ず評判の良い庭に立ち寄ります。素敵な庭に出会うたび、庭をもっと身近に出来たらいいのになあと思うんです。とかく高尚になりがちな「庭」のハードルをもっと下げることが出来たらどんなに素敵なことだろうと。「庭が嫌いだ」というひとには未だかつて会ったことがありません。庭のハードルが下がれば、多くのひとにとって植物がもっと身近になるのかもしれません。

ではそもそもどこからどこまでを「庭」と呼ぶんでしょうか?バロック式庭園の様に壮大なものから、小さなものなら坪庭まで。枯山水ともなれば植物が殆ど無いことだってあります。里山はぎりぎり庭と呼べそうですが、大事に育てたひと鉢を愛でるためのベランダは庭と呼べないんでしょうか?21世紀の救世主との呼び声高き「庭」なんですがその実体は意外とはっきりしません。

規模の問題ではなさそうだし、植物の量もそんなに重要ではなさそうです。とはいえ未踏のジャングルでは勿論だめで、掘れば掘るほど境界が曖昧になって行きます。そこで僕は、やや大括りではありますが「庭とは自然と人為が調和した空間である」という仮説を立ててみることにしました。とりあえずそこが上手くいってない庭にお目にかかったことはありません。この仮説をもとにブレイクスルーを試みてみましょう。

特に一見重要に思える植物の量についても仮説を踏まえると揺らいでいきそうです。例えば間伐したり剪定したり掃除をしたり、自然の中に人が歩み寄ることはつまり植物の量を減らすことです。人為による余白あってこその庭なわけで緑視率100%では庭に成りえません。図と地の関係のように実は余白の方が重要だったみたいですね。やっぱり植物の量の問題ではなさそうです。

更にいうと、屋内か屋外なのかすらも問題ではないのかもしれません。つい屋外であることを前提にしてしまいがちですが、屋内庭園というのも歴然と存在します。都市において屋外に潤沢な空間を設けるのは非常にハードルが高いですが、家の中にまで拡張可能だとしたら庭はもっと身近になりますよね。ひょっとしたら僕らは家の中を見落としていたのかもしれません。むしろインドアにこそ大きな可能性がある様な気もしてきました。部屋は「庭」にならないんでしょうか?

「庭とは自然と人為が調和した空間」だとしたら、植物は屋内にあっても活き活きと自然な状態であればそれでいいのかもしれません。つまり「空間に植物を活ける」ことが庭の本質なのではないか。規模も量も場所だって全く関係のないところに「庭」は宿るのかもしれません。

では空間に植物を活けるとはどういうことなんでしょうか?前回のブログで、花を花瓶に活ける様に植物を鉢に活ける「いけばち」という概念を考えてみました。それは「もとからこうだったんではないか?」と思える必然性あるいは原形性が重要でした。同様に「もとからそこにあったのではないか?」と思える程に自然なことが重要なんでしょう。空間に植物を活けるには「そこに置く」のではなく「そこに植える」意識を大事にしてみましょう。

ようやくシンプルな答えが見えてきました。それはもう本当に当たり前なんですが 「愛でる」 ということが結局は一番大事なんだと僕は思います。こんな当たり前のことなんですが意外に出来ていないものです。僕だって空間の死角を埋めるためにとりあえず植物を置いたりしてしまいがちです。愛でるといっても方法は様々です。例えばまずは植物中心にインテリアを考えてみてください。思い切って空間の中心に置いてみるだけでもガラリと雰囲気は変わります。

それは必ずしもそんなに大掛かりでなくてもいいんです。今までより少しだけでいいから優先順位をあげてみてください。植物の意思を尊重し空間のなかで大事に扱ってあげることで自然に活き活きとしてきます。ただ単に沢山の植物を置くことだけが愛情ではありません。大切に愛でてあげるならば小さなひと鉢だけでも充分なんだと思います。

どんな植物も、たったひと鉢の植物だって充分な力を持っています。しかし慌ただしい日常に追われる僕らは、自然界の力を知覚するセンサーが弱っているのかもしれません。だから西洋の空間恐怖の様に画一な「緑」として植物を埋め尽くすことでしか充足を得られないのだとしたら残念なことです。広大な空間にその辺で適当に買ってきた植物をいっぱい並べてその世話すらも人任せ、そんな事をいくらやってもそこは「庭」になりません。しかしどんなに小さなリビングだって、ひと鉢を愛おしみながら育ててあげればそこは「庭」と呼べるのかもしれません。

20世紀を代表する偉大な科学者でありデザイナーでもあったバックミンスター・フラーは、最小で最大の価値を獲得することの重要性を説きました。繰り返しますが「活ける」とは価値の最大化に他なりません。花を花瓶に活ける様に植物を空間に活けることは、その空間をも活かすことに繋がるでしょう。そのたったひとつの小さな行為で、どこにでも誰にでも「庭」を作ることが出来たら素敵ですね。

text by nobuaki kawahara

02_flowers

weekly “Flower design” 12/05/2015


●Japanese name:粟
●English name:Setaria italica
●Scientific name:Foxtail millet
●Habitat:East Asia